歴史シリーズを振り返って

せいパパですhappy01

8月16日から書き始めた

歴史シリーズも幕末まで

まとめ終わり一応完成しました。

コメントを頂いた数多くの

ブロガーさんありがとうございました。

一つ一つのコメントが

記事を書く原動力になっていました。

近代・現代の歴史も激動の歴史だったので

書きたいと思ったのですが

時間的にも体力的にも

辛くなってきたので終了にしました・・・。

この先も楽しみにしている方も

多かったと思いますがゴメンナサイ。

時間を置いて第二次世界大戦まで

書き上げたいと思っていますので

気長に待っていてくださいね~。

歴史シリーズは

旧石器時代から始まり

縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安

鎌倉・室町・南北朝・戦国・安土桃山

江戸前半・中後半・幕末と

15記事で構成しました。

歴史をもう一度簡単に振り返ると

旧石器時代は氷河期で

私達の祖先は狩猟生活を

送っていました。

縄文時代に小さな集落が出来て

集団生活が始まりましたね。

弥生時代は混乱の時代で

集落が冨を求めて争いを始めた時代です。

古墳時代は権力の象徴の

古墳が作られ始め

飛鳥時代では古代国家が誕生しました。

奈良時代には法律が出来て

天皇中心の律令体制が整い

平安時代には多くの権力者が

政権奪取の為に争い武士が

政権のトップに君臨しました。

鎌倉時代から武士政権が確立し

武力が政治を左右する時代に入り

室町時代では武力がぶつかり合い

南北朝・戦国時代で混迷を極め

一歩踊り出た徳川家康が

江戸時代を築き

太平の世を迎えましたが

時代の変換期の幕末を向かえ

江戸時代は終わりました。

簡単に言うとこんな感じでしたね!

その時代毎に様々なドラマがあり

現代に通じる事柄が

沢山散りばめられていたと思います。

歴史は繰り返します

今は平和な時代ですが

混乱と混乱の狭間に

位置しているだけでしょう。

歴史を理解すればするほど

一つ言える事は

正しいと言う物は存在しないと

言う事です!

時代背景で、それは決まってしまいます。

戦争は、いつ起きるか

わかりません。

歴史は人殺しの歴史なので

戦争に結びついてしまいますが・・・。

時代が戦争を求めれば

混乱期を迎えます。

私達はその時何を信じればいいのか

悲惨な戦争は反対と

訴えています私も戦争は反対ですが

歴史を紐解くと

そう簡単に戦争反対とは

言ってられません・・・。

これから先は私の考えですが

不満があるから小競り合いが起こってしまいます。

その小競り合いが強大な力を持った時

歴史は静かに動き始めます。

メディアも教育も変わってきます!

そんな中私達は何を基準に

道を選択して良いのか混乱してしまいます・・・。

戦争反対派、戦争推進派に

国内が分かれたとしましょう

あなたはどっちを選んでも自由ですが

多分多数派の

戦争反対派を選んだとしましょう。

世論が戦争反対を訴え

戦争推進派を弾圧します

すでにそこで血が流れるでしょう

完全に弾圧が出来れば

良いですが残党が残っていたら

最後まで政府は弾圧しようとするし

国民もそれを願いますが

弾圧の最前線では血が流れています

この時点であなたは戦争とは

何かを見失っています。

自分と違う考えを持った人を

排除する事に疑問を感じないのです!

抹殺されて当然だと考えてしまいます

戦争とは人を傷つけますが

傷つけると言う行為が

麻痺して分からなくなってしまいます・・・。

あくまで私の考えなので

異論は沢山あると思いますが

歴史シリーズを書いていて

強く感じたことです。

戦争が無い世界が続いて欲しいと

私は願っています。

歴史シリーズの総評でしたが

私個人の考えを記事にしてしまいました

戦争の無い世界を実現させるには

何が大事か考えて行きたいですね!

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幕末

せいパパですhappy01

文章中の青い文字は関連HPへリンクしています。

江戸幕府終焉の時です。

幕末を語る上で

避けられないキーワードが

存在します。

尊王攘夷(そんのうじょうい)

この言葉の意味を知らないと

幕末の出来事が何の為に

行われてきたのか理解できません!

幕末は尊皇攘夷を軸に説明していきますね。

尊皇攘夷は四つの意味を

四文字で表現しています

一文字ずつ意味を解説していきますね~。

「尊」=尊ぶ

「王」=天皇

「攘」=攘う(はらう)

「夷」=外国人

天皇を尊び外国人を排除する

又は

外国勢力に対抗できる幕藩体制を

強化する

その他にも

天皇中心の鎖国を強化した幕府

など沢山の解釈が出来ます

この解釈の違いが幕末の動乱に関係してきます。

●幕末の流れ

●尊皇攘夷の始まり

●尊皇攘夷の迫害

●尊皇攘夷の移り変わり

●討幕運動

以上の5個を中心に説明しますね。

●幕末の流れ

1853年に浦賀沖にペリー率いる

黒船4隻が来航し

翌年に日米和親条約に合意

その翌年には日露和親条約に合意と

鎖国を続けていたけど

幕府はあっさりと開国の道を

歩み始めて

1858年 日米修好通商条約

井伊直弼が勝手に調印しっちゃったんです

それで気が付けば幕府は開国

それから動乱ですよ!

尊王攘夷派が条約に

猛反発した為に

井伊直弼安政の大獄

多くの活動家を弾圧したが

桜田門外の変で井伊直弼は暗殺された。

その後、生麦事件をきっかけに

英国と緊張関係になり

薩英戦争下関戦争が勃発し

長州・薩摩藩は西欧諸国の実力を

目の当たりにして開国への道を歩き始める。

1863年 八月十八日の政変

薩摩藩が長州藩を京都から追い出したために

薩摩藩と長州藩の間に

大きな溝が出来てしまい

坂本竜馬は考えました

長州藩と薩摩藩が一つになれば

幕府に勝てる軍事力があると!

それにしても、二つの藩だけで

幕府と同じだけの力があるなんて

幕府が弱いのか薩長が強いのか

どっちなんでしょうね~。

1866年に坂本竜馬らによって

薩長が歩み寄り

薩長同盟に合意し

翌年幕府は大政奉還して

約270年続いた江戸幕府は崩壊しただけでなく

鎌倉時代から約750年も

続いた武家政権も終わってしまいました!

薩長同盟・大政奉還の立役者だった

坂本竜馬もまた暗殺されてしまいました。

明治元年からの戊辰戦争

幕府軍と薩長が戦い

最後まで幕府の為に戦った

会津藩・新撰組の熱いドラマは

数多くの物語を世に送り出しましたね!

●尊皇攘夷の始まり

尊王攘夷水戸学から生まれた言葉で

本来は尊王論攘夷論

二つ別々に存在した言葉でした。

尊王論

天皇を尊重する考えです。

江戸時代末期では

幕府に不満が集まり

存続させる為には

王制を復活した方が良いと

水戸藩は考えました。

庶民は信仰心がとても熱かったが

天皇を崇拝する人は居ませんでした。

水戸藩は大日本史の編纂で

天皇を中心にすると

政治が上手くいくと考え

信仰心が熱い国民性なので

天皇崇拝で幕府の建て直しをしようと

考えました。

攘夷論

諸外国と国交を断つ鎖国的な考えです。

江戸末期になると

欧米列強が日本近海に

姿を現すようになり

鎖国を強化し強い国力を

育てようとしました。

両者が

一つになり尊皇攘夷と言う

言葉が出来ました。

この頃は、あくまで幕府があり

尊皇攘夷が存在していました。

●尊皇攘夷の迫害

黒船から歴史が動いた。

ペリーが

やって来て

1854年に日米和親条約

日本は合意しちゃいました・・・。

その後、日露和親条約にも合意。

日米修好通商条約

江戸幕府は完全に開国してしまいました。

鎖国を辞める事は当時の国民は

想像もしていませんでした・・・。

開国反対の尊王攘夷派の反発が相次ぎ

井伊直弼が行った安政の大獄によって

尊皇攘夷派の弾圧が強まり

尊王攘夷派の水戸藩の浪士を中心に

桜田門外の変で井伊直弼を暗殺。

坂下門外の変なども

水戸藩浪士が中心に

襲撃事件を起こした。

●尊王攘夷の移り変わり

初めは尊王攘夷は倒幕運動では

ありませんでした。

幕府・新撰組は幕府の力で尊王攘夷を決行

長州藩は幕府による尊王攘夷に反対でした

薩摩藩は幕府の力で尊王攘夷を実現したかった

水戸藩は尊皇攘夷を推し進めていた

それぞれ立場は違うが

尊王攘夷の考えは同じでした。

幕府は開国してしまったので

尊王攘夷が崩壊しました。

薩英戦争・下関戦争で

諸外国の軍事力の力の差を

見せつけられた薩摩・長州藩は

攘夷が不可能と考えました。

薩長は尊王攘夷から尊王開国+倒幕

幕府・新撰組は公武合体

土佐藩は公武合体

水戸藩は尊王攘夷派と佐幕派二つに

分裂しました。

公武合体とは

開国路線で朝廷と幕府が一つになる事です。

佐幕派とは

幕府と同じ考えの事です。

尊王攘夷が変化し

攘夷は無くなり

開国路線で考えが分かれて来ました。

●倒幕運動

今までの記事で薩摩藩・長州藩が

クローズアップされていますが

そもそも何故この両藩が倒幕運動を

していたかです!

原因は安土桃山時代の

関ヶ原の合戦にあります。

薩長両者は

負けた西軍だったからです

長州藩は西軍総大将の毛利氏

毛利氏は存続しましたが

江戸幕府によって著しく規模を

縮小されてしまった為に大変な思いをしました。

薩摩の島津氏は関ヶ原の戦いで

徳川家は恐ろしさを知ったので

幕府は島津氏の、お家取り壊しを

狙っていました。

両藩は徳川幕府に恨みを持っています

それが倒幕運動につながりました。

坂本竜馬を輩出した

土佐藩は公武合体派で

倒幕運動は行っていませんし

水戸藩(厳密には違いますが)以外は

目立った倒幕運動は行っていません。

徳川最後の将軍 徳川慶喜

大政奉還して約270年続いた

徳川幕府は崩壊した。

その後も坂本竜馬の活躍で王政復古して

明治天皇を頂点にした

君主政治を始め

明治維新、戊辰戦争を経て

明治新政府が誕生しました。

茨城県の幕末

幕末の騒乱は水戸藩から始まりました。

1858年孝明天皇が正式な手続きを

取らずに水戸藩へ勅書を下賜しました。

内容は日米修好通商条約を攻め

公武合体の実現と攘夷を進める事でした。

これが戊午の密勅です。

これにより水戸藩は

藤田小四郎が率いる過激な尊王攘夷派(天狗党)と

保守派の諸生派に分かれ

諸生派は幕府と手を結び

天狗党を弾圧しました。

水戸藩を中心の尊王攘夷派を

弾圧する為に安政の大獄が

行われて行きました。

天狗党は尊王攘夷の考えを

朝廷に伝える為に

天狗党の乱を起こした。

江戸末期の武士は戦を知らないので

天狗党の迫力に何も出来ませんでしたが

水戸藩の徳川慶喜によって鎮圧され

天狗党は処刑されたが、その数300人以上

日本史上類を見ない刑罰だった。

水戸藩の天狗党は水戸藩の徳川慶喜(一橋慶喜)に

倒されるとは想像もしなかった。

その後、諸生派により

水戸藩内の天狗党の家族が

殺されましたが

倒幕運動が盛んになると

諸生派に対して天狗党は敵討ちを行い

水戸藩の要人を皆殺しにしてしまい

明治新政府に高官を一人も

出す事はありませんでした・・・。

天狗党の前身だった

玉造組に所属していた

水戸藩浪士の

芹沢鴨は水戸派として

佐幕派である新撰組(壬生浪士)

近藤勇と結成して初代筆頭局長として

活躍したが後に

新撰組の内部抗争で暗殺された。

新撰組は幕府軍として戊辰戦争を

戦い抜きドラマなどで、その雄姿は

現在も語り継がれていますが

ドラマ化や書籍化される以前は

新撰組も天狗党と同じで

世間に注目される事はありませんでした。

江戸幕府が開国をしなかったら

諸外国は武力で開国を迫って

日本は西欧諸国の植民地になっていた

事でしょう。

幕府が開国したのも仕方が無かったことです

開国しても強い国家でなければ

意味がありませんでした。

それを実現できたのが坂本竜馬です!

坂本竜馬の薩長同盟成立・大政奉還への

働きかけがなければ強い国家の

実現は不可能でした。

坂本竜馬、暗殺されないで

生きていたら全く違った

日本の歴史が刻まれたかも

知れませんでした。

惜しい人材です!

水戸藩が歴史に躍り出た幕末だったので

区切りがいいので

以上で歴史シリーズは終了です。

約3週間に渡りお付き合い頂いて

ありがとうございました。

明日は歴史シリーズを

振り返りながら総評したいと思っています。

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江戸時代まん中から後半

せいパパですhappy01

文中の青い文字は関連HPへリンクしています。

江戸時代中頃なると

日本各地に趣の違う

宿場町や城下町・港町などが

形成されるようになり

江戸も人口が100万になり

世界最大の都市に成長しました。

また計画的に

宿場町や城下町など地方都市が建設されたのも

日本が世界ナンバー1です。

当時の東海道は

世界でいちばん往来する人が

多かった道だと言われています。

この頃には江戸時代最大の税収入に

なったのですが年貢税率の固定化が

行き過ぎ飢饉もあり

農民と

土地を所有しない

武士の生活安定の

両者の生活安定を目指したが

結局は経済圧迫政策を打ち出し

不況へ転じてしまいました。

享保の改革

徳川八代将軍 徳川吉宗の時代に

(吉宗はドラマ暴れん坊将軍で

有名ですね!)

米将軍と言われた将軍で

米の安定を実現させました。

この改革で不況は脱しました!

天保の改革

江戸時代後半には大奥

かなりの財政がつぎ込まれ

地方では農民の貧富格差が広がり

天保の大飢饉が日本全土を襲い

幕府の無策に大塩平八郎が大規模な一揆を

起こし地方まで飛び火して行きました。

水野忠邦天保の改革を行い

財政立て直しを行いましたが

失敗して失脚しました。

天保の改革は税率アップなどで

成功しましたが一時的な効果しか無く

この後に農民の一揆が多発し

幕末の動乱に至る

きっかけになってしまいました。

幕府が財政難の中

薩摩藩・長州藩は財政改革に成功して

強い発言権を得る為の力を

蓄えて来ました。

茨城県の江戸時代まん中から後半

徳川光圀の大日本史編纂で

水戸藩には水戸学と呼ばれる

学問が出来ました。

水戸藩第9代藩主

徳川斉昭の発案により

水戸に藩校の弘道館が設立され

水戸学が大幅に充実しました。

水戸学

大日本史編纂から生まれた

日本古来から伝わる事を

学び追及する学問です。

弘道館では

医学・薬学・天文学・蘭学

武術も学べる藩校で

規模は国内最大でした。

水戸学は藤田幽谷正名論を表し

その考えが後の尊王攘夷

思想に発展して行き

幕末の水戸藩は大混乱に

陥ってしまいした。

徳川斉昭は弘道館と

日本三大名園となる偕楽園を造園し

弘道館で学び偕楽園で休むと

両方を兼ね備えました。

水戸学の影響で

水戸藩から

学問の世界に名を残した

人物を多く排出しました。

間宮林蔵

樺太が離島だと発見して

間宮海峡と名を残しました。

長久保赤水 

日本で初めて

緯線を記入した地図を作成し

伊能忠敬が実測で地図を作成するまで

使われていました。

沼尻墨僊

傘式地球儀を発明。

河口信任

日本で2番目の人体解体書「解屍編」を作成。

その他にも沢山の人材を

水戸藩は世に送り出しました。

江戸時代は華々しく

始まりましたが多くの問題を

抱え初めて少しづつですが

衰退へと向かって行きました

この先、江戸幕府は終焉を迎えます。

完璧だと思われた徳川家康の

思想も時代に合って来なくなると

次第に崩れていき

安定を目指して改革をする政府ですが

時代と合って無い政策を

打ち出し次第に自滅への道を

歩き始めました。

本当に政治とは難しいものですね。

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江戸時代初期

せいパパですhappy01

歴史シリーズも江戸時代に入りましたよ!

文章中の青い文字は関連HPにリンクしています。

江戸時代は約270年だけど

内容が濃い!

私もどうやって書いていいか

分からない・・・。

細かく書いていたら

記事数が膨大になるし

ここに遊びに来る方も

いつまで江戸時代の説明をしてるんだろう・・・

なんて思って来ると思うので

江戸時代を3分割しますね!

江戸時代初期・まん中から後半・幕末

内容も、いつも通りに

チョー簡単にいっちゃいます!

江戸時代初期

歴史を良く学び、戦国の世を生き抜いた

家康だから出来た政治ですね。

関ヶ原の合戦で勝利し

江戸に幕府を開いて江戸時代が

始まりました。

大阪の陣豊臣家をボッコボッコに

やっつけて政局を安定させていき

徳川家康武家諸法度を制定して

大名達をバッタバッタと改易・転封していき

江戸幕府に対抗する勢力を

法により潰していきました!

改易と転封

転封は戦国時代の記事で

佐竹氏が秋田に国替えになったと

書きましたがそれが転封です。

転封される事によって

今までより勢力をガタッと

落とす事が幕府の狙いです。

改易は武士の身分剥奪・領地、家屋敷の没収

徳川2代将軍 徳川秀忠の時の

例をあげますね!

福島正則をご存じですか?

幼少の頃から加藤清正と共に

豊臣秀吉に仕えていた武将ですが

関ヶ原の戦いでは徳川に付き

勝利を共に勝ち取った人です。

福島正則は安芸広島の領主になり

広島城に入りましたが

台風被害で雨漏りがして来たので

武家諸法度に乗っ取って

幕府に城の修繕をする意向を示したが

幕府から何も返事が無く

仕方なく勝手に城を少しだけ修繕した所

幕府に修繕した所を元に戻す様に

言われたので福島正則は

城の前面の石垣を崩して

戦国時代の誠意を見せた所

幕府から責められ改易になりました。

武家諸法度で法律が

世の中の中心になっている事に

なじめなかった福島正則は

戦国時代のやり方で誠意を見せたが

時代の波に乗れずに

安芸広島50万石から越後国魚沼4万5000石に

減封され、その後2万5000石を

幕府に返し、衰退していきました。

こんな感じで

5代将軍の頃には

安定した国家を築き

武士だった人達が生産者になり

商工業も発展を遂げて

日本は大きく成長して行きました。

鎖国

歴史で習いましたね!

徳川三代将軍 徳川家光の時代に

鎖国は完成しました。

外国との貿易を辞めたと。

現在は鎖国と言う言葉は

適切では無いと言われています。

長崎の出島では貿易が行われていたし

対島藩・薩摩藩・松前藩も貿易を

行っていたので

現在は「鎖国」では無く「海禁政策」と

呼ばれ始めています。

海禁政策とは制限貿易政策を指します。

鎖国を行った為に国内重視政策が

採られて経済の中心が大阪になり

関西を中心に元禄文化が発展。

大奥

三代将軍 徳川家光の乳母 春日局

大奥取締役になり

政治に大きく影響を与えるほどの

権力を持って行ったのですが

実際には大奥取締役と言う役職は

存在しませんでした。

将軍の世次を絶やさない為に

誕生した大奥でしたが

その維持には莫大な資金が

必要だったために財政悪化の

原因の一つになりました。

元禄文化

徳川第五大将軍 徳川綱吉の時代に

花咲いた文化です。

綱吉は生類憐みの令を何度も出し

犬公方と言う名前が付いた程でしたね。

俳句・歌舞伎・儒学・私学・自然科学に美術と

様々な分野が一気に花開いたのも

この時代です。

士農工商

江戸時代の身分制度ですが

実際は武士の下に

町民と、農民が存在していて

ガチガチに身分制度が守られていた訳では

無いのです!

以外と自由だったのですが

明治新政府が自由な国作りを

押し出す為に、何が何でも

江戸時代は身分制度があって

大変な時代だったと

国民に印象付け無ければならなかったので

現在の様な解釈になってしまいました。

この呼び名も明治に入ってから

使われるようになりました。

江戸時代は使われて無かった言葉なんです!

藩は江戸時代は~御領分・~御家中

呼ばれるのが一般的でしたが

その他の言い方もありました。

学校で習った記憶は無いです・・・。

ここでは藩で説明しますね!

藩は1万石以上の領土を保有する

大名が支配した所を言い

藩は中央とは独立した存在で

小さな国が沢山ある感じでしたが

江戸幕府は武家諸法度で大名を

支配していたので中央に逆らう事は

出来ませんでした。

茨城県の江戸時代初期

江戸時代に入り

水戸が政治の表舞台に

躍り出て来ました!

徳川御三家の一つ水戸藩です。

中でも水戸藩2代目藩主

徳川光圀は有名ですね。

水戸黄門として有名で

ドラマでは日本各地を

助さん格さんと旅して廻っていますが

実際は水戸藩内と

ちょっと他の領内を廻った程度で

ドラマとは全く違います。

旅をするイメージが出来たのは

徳川光圀が作成していた

大日本史で日本中に使いの者を出して

各地の文献を集めた為に

各地を旅している

イメージが出来上がったと言われています。

その大日本史ですが

完成するまでに250年かかり

明治39年に全397巻目録5巻と言う

膨大な資料になっています。

内容は神武天皇から後小松天皇までの

歴史をまとめています。

その内容から尊王攘夷の考えが

水戸藩に誕生し天狗党の乱に始まり

長州・薩摩による明治維新へと

思想が発展して行きました。

天下の副将軍

これもドラマで耳にする言葉ですが

実際には徳川副将軍と言う

役職は存在していませんでしたが

水戸藩は参勤交代が免除されていて

江戸に在駐して将軍の補佐役的な

仕事もしていたので

そう言われるようになりました。

徳川御三家の中では

水戸藩の地位は3番目と低かったのですが

水戸藩は将軍の補佐役を

行っていると言う自負を感じていました。

大日本史の編纂と水戸藩主が江戸に在駐する

予算が膨大で水戸藩の財政は

良くはありませんでした。

江戸時代は今までの歴史の良い所を

参考にして華々しく始まった幕府です。

庶民は長い戦乱の後に訪れた

平和な時代を謳歌し

様々な文化を造り

元禄時代にはバブル期が

あったのではないかと

言われています。

平和が訪れるには

統一と言う大義名分の上に

混乱した時代が必ずあるのです

平和と戦争は切っても切れない

関係なんですよ

だから今でも紛争が起こってる国も

平和を勝ち取る為に戦っています。

日本に居ると平和なので

この意味が分からなくなってしますね・・・。

戦争は平和と言う大義名分の

上に存在するので

平和になりたい豊かになりたいと言う

気持ちさえ私達に無ければ

戦争が無い世の中になると

私は思います。

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安土桃山時代

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安土桃山時代ですが

戦国時代とダブっています。

前半は織田信長安土城を拠点にし

後半は豊臣秀吉が桃山の伏見城

拠点にしたので

安土桃山時代と言う

たった33年間の歴史区分ですが

また曖昧です・・・。

今度は安土桃山時代と言う

名前が曖昧になっています。

織田信長の

安土城は、たった3年足らずしか

存在して無くて

豊臣秀吉が建築した

伏見城も入城から2年ほどで

秀吉が亡くなってしまいました。

桃山も桃山城と言う城があった訳では無くて

伏見城跡に桃の木を植えたから

江戸時代になって桃山と呼ばれるようになり

今は安土桃山時代を織豊時代と呼ぶ事もあります。

安土桃山時代

戦国時代とダブってしまうので

今回も視点をガラッと

変えて説明しますね。

●桃山文化

●天守閣

この2つを中心に

安土桃山時代に迷い込んで下さいね。

残念ながら信長・秀吉の

話はしません・・・。

●桃山文化

仏教文化が薄れて来て

人間中心の傾向になった文化です。

天守閣も桃山文化ですが

次に独立して説明しますね。

障壁画

織田信長は南蛮文化に

非常に興味があり

その他多くの文化も発展させてきました。

桃山文化で代表的なのが障壁画ですが

由緒ある古い家や城の

ふすまや障子・屏風に

豪華に描かれた絵を

障屏画と呼び

壁面に描いた物を壁画と言い

両方を合わせて障壁画と呼びます。

茶道

千利休によって茶道が出来

湯飲みなどの陶器が各地で作られた時代です。

有名な陶器は有田焼です。

その他にも

萩焼薩摩焼上野焼高取焼など

芸能

歌舞伎や三味線を使った歌が流行し

浄瑠璃と言う語り物や

浄瑠璃と三味線の伴奏で人形を

操る人形浄瑠璃も流行しました。

南蛮文化

キリスト教宣教師によって

医学・天文学・地理学も入って来ました。

楽市・楽座

経済の発展の為に

自由に物品を販売できるようにし

税金の免税を行い経済の活性化させた。

徳川家康も経済の発展の為に

このシステムを存続させて

江戸幕府の繁栄を築きあげました。

●天守閣

天守閣も桃山文化を代表する

建造物です。

桃山文化を代表するって

昔から城には天守閣が

あったのでは?と疑問を持たれると

思いますが

安土桃山時代以前の城には

天守閣は殆どありませんでした!

ビックリでしょ~。

実は私達が認識している城は

殆どが安土城以降の城です。

大きな天守閣を持った城は

平地に建てられていますが

南北朝時代、戦国時代の城跡は

殆どが辺鄙な山の中にあります。

地元の城跡を探してみて下さい

山の中に城跡があると思います!

有力大名の城は別として

本来、城とは戦で敵から

守る為に建てられたものなので

費用はかかっていません

自然の地形を利用して

いかに攻め込まれないかを

考えて作られた場所なんです。

天守閣も無く陣を張り

物見やぐらと、質素な蔵があるだけ

それだけです。

現在の城跡には

存在するはずも無かった天守閣を建造して

○○城跡とか観光の為に利用されているけど

実際は天守閣が無かった城が沢山あります。

それは観光地化する場合や

発掘で城跡が見つかっても

天守閣が無かった城には

自治体も、お金を産んでくれる訳では

無いので興味が無いからなんです

私達市民も天守閣が無い城には

全く興味が無いですよね。

ちなみに茨城県の城には

天守閣が存在した城は1個も無いです・・・。

水戸御三家で有名な水戸城

予算の関係と技術不足で

当時は天守閣を作る事が出来ませんでした

今は公的な施設が建っているので

原型を良く保っています。

それに引き換え佐竹氏の城 

佐竹城は全く遺構を残して無いです・・・。

常陸太田市の旧市街全体に

城が広がっていましたが

佐竹氏が去り城跡を

自治体が民間に売却した為に

著しく市街地化が進み

当時の面影が残るのは佐竹と言う

名前だけで地名さえ残っていません・・・。

観光地化した城跡の豊田城(常総市)は

城跡の近くに疑似天守閣を作ってしまいました。

この城も天守閣は存在しませんでした

結構やり過ぎですね・・・。

天守閣が無いと言うのが

後世の人たちにとって

何の意味も無い場所になっているのです。

もう一度、皆さんの近所の

城跡に目を向けて下さい

そこには奥深い歴史が刻まれていますよ。

古墳の様に目には見えませんが

室町時代のロマンです。

城跡には必ず神社が祀っています

それは、この地で多くの血が流れたために

存在しています。

昔の人たちが自分達が住む場所を

守る為に戦った聖なる地です。

次回からは江戸時代を何回かに分けて

アップしますね楽しみにして下さい。

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戦国時代

せいパパですhappy01

いよいよ戦国時代まで来ましたね。

この時代はドラマになったり

映画になったりで人気がある時代ですね!

戦国時代も歴史区分が曖昧です。

しかも室町時代と安土桃山時代に

またがった時代で歴史区分は

よくわかりません・・・。

何故、戦国時代が人気があるのか

それはスーパースターが

沢山居た時代だからですね!

戦国時代

歴史区分の定義が

いつもながら、ハッキリとしていません・・・。

応仁の乱以降が

戦国時代と定義されていますが

関東ではその以前から戦国時代に

入っていたと考えられていて

始まりがいつだか???です。

戦国時代の終わりも???何です・・・。

豊臣秀吉が天下を統一した時に

戦国時代の終わりという考えと

関が原の合戦が戦国時代の

終わりだと言う考えなど

いろんな定義の仕方があって・・・。

今回は関ヶ原の合戦までが

戦国時代として話を進めますね!

安土桃山時代と重なるので

今回も視点を変えますね~。

織田信長の事はTVで

沢山やっているので

ここで紹介する事も無いので

徳川家康をピックアップしました!

こちらもTVでガンガンやってましたけど・・・。

徳川家康

賢い戦国武将ですね。

数ある戦国大名で大成功したのは

彼ですからね。

徳川家康は歴史をかなり

勉強した様ですからね

人がどんな選択をするのか

人が窮地に陥ったら何をするか

人に何かを与えれば何をするかも

お見通しだったのでしょうね!

徳川家康と言えば江戸ですね

国替えになって江戸に来た

家康ですが江戸は

素晴らしい所と言うイメージが強いですが

昔はとんでも無い所だったんですよ

そこから這い上がって来たのだから

学ぶ所ばかりです。

徳川家康三河国(現在の愛知県東部)

松平家に生まれましたが

尾張の織田家、駿河の今川家に

挟まれた弱小な勢力でした

幼少の名は竹千代

織田・今川家に小さな頃から

人質として両家を渡り歩いた頃も

あるほどでした。

元服して名を松平元康に改めました。

あの有名な桶狭間の戦いから

人生が一転しました。

桶狭間の戦い

松平元康は駿河の大名今川軍に居ました。

戦国時代末期になると

天皇に認められて天下を取ろうとして

今川氏は京を目指して

行く途中の織田氏に攻撃を仕掛けました。

今川軍にしたら京に上る途中の

弱小織田軍なんて相手にならないよ~と

思ってたら

今川軍の大軍勢の10分の1の

軍隊で織田信長が戦術を駆使して

勝っちゃったんですね。

これが桶狭間の戦いです。

今川軍が撤退した岡崎城に入った

松平元康は織田信長と同盟を結び

織田信長に仕え名前を徳川家康に改名しました。

岡崎城が今川氏との壁になり

織田信長は西側に勢力を伸ばす事が出来ました。

戦国なのでその後も戦ばかりです。

足利義輝と織田信長の対立

始まり足利義輝が徳川家康に副将軍として

協力を求めたが家康は無視し

朝倉義景・浅井長政軍との戦い

姉川の戦いに参加した。

その後、徳川家康武田信玄と手を組み

今川領の遠江国(静岡県)を占領して

仲良く領土を半分づつにしたけど

領土拡大を図った武田信玄は

信濃に軍を侵攻した為に

徳川家康と敵対関係になってしまいました。

武田信玄の快進撃が始まったが

織田信長も助ける余裕は無かった

朝倉義景・浅井長政との戦いで

精一杯で徳川軍だけで武田信玄と

戦ったけど武田軍は強すぎて

織田信長から援軍が来たけど

徳川家康は浜松城に逃げ帰った。

武田信玄が病で死んでから

織田・徳川軍が長篠の戦いで大勝して

徳川家康が優位に立ち

武田家を滅亡させた。

本能寺の変で織田信長が亡くなり

状況が一変した

甲斐・信濃の織田領内で一揆が相次ぎ

徳川・北条軍が攻め込み領土とし

北条氏に徳川家康の次女を嫁がせて

同盟を結び戦国大大名へと

徳川家康は、のし上った。

豊臣秀吉登場

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)

織田家の筆頭家老の柴田勝家

破って台頭してきて

徳川家康と織田信雄が同盟を結だけど

秀吉に攻め込まれたので

織田信雄羽柴秀吉と講和してしまったので

徳川家康も、これは駄目だと

二男を秀吉に養子を出して

秀吉から回避した

徳川軍の中では

徳川派と秀吉派の二つに割れてしまい

最終的には徳川家康も羽柴秀吉に

仕える事になり豊臣秀吉が天下を統一した。

秀吉は北条氏を滅ぶすために

徳川家康も参加して小田原の役

北条氏を滅ぼし、その褒美に徳川家康が貰った領土が

北条氏の領土・・・関東・江戸・・・。

国替えになりました。

愛着のあった東海地区から

秀吉から遠く離れた関東に

ポイっとされました

秀吉も、よっぽど徳川家康の力が

怖かったんでしょうね。

江戸に来た家康は???です。

滅亡した北条氏の残党がいるし

何にも無い田舎で山と湿地と海!

江戸城もこれが城ですか?と

思うばかりの変な建物でした。

秀吉は家康を遠くに

やって一安心していましたが

徳川家康の本領が発揮されるのは

ここからでした。

家康は江戸の大改造を行いました

湿地ばかりだから運河を作って

湿地の水を海に流し

平地が無かったから海を埋め立てて

陸を作って川なんかも作りました

街も整備して城も建て替えて

見違えるほどの国力を江戸で

作ってしまいました。

有力な家臣を重要な城に配備して

何でも無かったように

関東を大発展させていきました!

その後は天下取りの時期を

ず~と待っていて

養子や娘を出したり重要な人物との

間に入って同盟を結ばせるような縁組を

行って、着実に

仲間を増やしていった

その成果が関ヶ原の戦い

勝利をもぎ取り真の天下を統一して

270年にも及ぶ

戦国武将が夢見た大平の世を

実現しました。

徳川家康素晴らしすぎます!

茨城県の戦国時代

それは佐竹氏に始まり

佐竹氏に終わりますね!

室町時代に入って佐竹氏の勢力が

復活して佐竹義舜が常陸北部を制圧した。

佐竹義重が登場すると最盛期を迎える事になり

水戸城の江戸氏を倒し

県南部の武将も次々に倒して

関東で北条氏と戦う事が出来る武将は

佐竹氏と里見氏しか存在しない程に成長しました。

常陸国のほぼ全域を統一して

佐竹義重は織田信長とも

久しい関係になっていった。

織田信長の死後は

佐竹義宣が大名になり

奥州へも進出し伊達政宗と戦ったが

一夜で撤退を余儀なくされたしまった。

佐竹氏は関東の北条氏と奥州の伊達氏を

相手にして戦ってきたが

秀吉が伊達政宗を倒した後に

何の褒美も無かったので

秀吉に不信感を抱いてきた。

佐竹義宣は常陸54万石で水戸城に入り

豊臣大名として佐竹義宣は京都で

上杉景勝石田三成と親交を深めいきました。

豊臣秀吉が亡なり身に危険を感じた

石田三成は佐竹義宣に助けを

求めて佐竹氏に身をよせました

関ヶ原の合戦では

佐竹氏の軍事力は強大で

真田昌幸佐竹義宣が協力すれば

徳川に勝てると石田三成

考えたが石田三成に不信感を抱き

家康・光成のどちらに着くか迷っている間に

関ヶ原の戦いは東軍勝利に終わってしまい

佐竹氏は出羽久保田(秋田)へ国替えに

なってしまいましたが

徳川から20万5千石の朱印状を

貰った時には実質収益は32万石になっていて

秋田時代の繁栄の基礎を作る事が出来ました。

戦国時代は日本の歴史史上

一番の混乱期でした。

幕府の統制が利かないと言う事が

どんなに怖い事なのか

理解できたと思います。

キング・オブ戦国武将 

徳川家康!

徳川家康は産まれた時から劣勢に立たされて

決して強い軍を率いていた訳では無いです

戦力と力が周りより劣っていたので

徳川家康は頭を使いました

誰もは自分が置かれた立場が

不利だと思ったら諦めてしまいますが

諦めないという事を

徳川家康は教えてくれている様に

感じられます。

徳川家康は最後には勝利を勝ち取り

江戸幕府を開きました。

物凄く簡単にまとめたので

少ない情報ですが

この記事を読んで頂いた

みなさんは何をこの時代に感じましたか?

いつもながら興味が出た方は

詳しい事は自分で勉強して下さいね!

ちなみに私が好きな戦国武将は

真田昌幸・明智光秀・佐竹義重の

3人ですが

皆さんの好きな戦国武将は誰ですか?

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康

歴史に大きな名を残した名将ですが

彼らが成功出来たのも

取り巻いている家臣が素晴らしい

仕事をしてくれました

正室始め女性たちの力も

表舞台にはあまり出てきませんが

かなりの影響力を持っていました。

成功する人には素晴らしい人間が

集まり成長して親分を支えてくれています。

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南北朝時代

せいパパですhappy01

前回は室町時代でしたね。

歴史記事もう着いて行けない方は

手を挙げて下さい。

結構いるようなので

今回は簡単にさ~と流しますね。

初めにこれを見て

思いっきり笑ってから下の文章を

読むと良いかも!

文中の青い文字は関連HPへリンクしています。

室町時代は前半が

南北朝時代で後半が戦国時代だと

言う事が理解できたと思います。

今回は室町時代前半の

南北朝時代です。

南北朝とは

南朝・北朝の二つの

朝廷が存在した時代の事です。

誰がどうして何かは今回は

どうでも良いです。

訳がわからなくなります・・・。

何故こんな時代に成ったかですね!

一言で言えば

意地の張り合いなのかなと

感じますね。

後醍醐上皇も足利尊氏も

始めは仲が良かったんですが

仲が良いからこそ

溝が入ると相手を潰すまで

戦うんでしょうね。

今の私たちの生活と

なんら変わりませんね~。

時代が動き始めると

もう止まらない・・・。

本人よりも周りの人間が

動き始めるのですね

例えて言うなら

結婚披露宴会場を決めるのに

当人同士はそっちのけで

両親や親戚が顔を突っ込んで

複雑怪奇な構図になる様な感じかな?

南北朝時代も私の印象では

似たような感じですね!

足利将軍家は存在したけど

足利家の事は、そっちのけで

周りが政権を取る為に

やっきになっていた・・・。

権力の座に付きたい人も居れば

自分の領土を増やしたい人

攻め込まれちゃった人達

勝ち残る事が全てですからね!

最後は足利義満が南朝側の

守護大名をバッタバッタ

解体して北朝を攻める力を無くして

南朝が北朝に吸収されて

南北朝時代は終わります。

南北朝正閏論

北朝に後醍醐天皇が

偽者の三種の神器を渡して

北朝に南朝が吸収されて

南北朝が統一したのですが

南北朝正閏論が歴史研究の

偉い人達の中で論議されています

北朝と南朝どちらが正統な朝廷なのかを

研究してるみたいですね

徳川光圀は「大日本史」では

徳川氏の祖、新田氏の正統性を

示す為に南朝が正統としました。

頼山陽さん、多分偉い人でしょう

その方も南朝が正統と支持。

当時の公家は北朝に仕えていたので

公家の末裔の歴史家は北朝を正統と支持。

皇族も北朝が正統と支持しているので

どっちが正統な朝廷かわかりません。

討論している歴史家たちも

こんな時でも私情を挟むのですね・・・。

私たちにしては

真実がどっちでも関係ないですが・・・。

そんなのは駄目ですかね?

茨城県の南北朝時代

室町時代の記事で

概要は説明したので

南北朝時代に登場する

城跡を紹介しますね。

瓜連城(那珂市)

武生城(常陸太田市)

大宝城(下妻市)・関城(筑西市)

小田城(つくば市)

茨城県は関東における

最後の激戦地でしたので

歴史的に重要な場所になっていますよ。

南北朝時代に良いコメントを

山口ジジイさんから頂きました。

>楠正成は、このころの人でしょうか?
なんか、私、ごっちゃになってしまうんですよね。
皇居にあるくらいだから、忠誠心の強いまじめな人なんでしょうなあ。
私はどちらかというと、油売りから国盗物語の人や、尾張のバカ信長、土佐のよばあた龍馬。
型破りな偉人が好きです。
ま、一般的にも人気は高いですね(笑)

北朝に南朝が吸収されて

北朝が朝廷になったのです

南北朝時代以降の天皇は

北朝の天皇なのですが

皇居には南朝だった楠木正成の像が

存在しています。

明治天皇は暗殺されていた!

考明天皇が暗殺され

時期の天皇には睦治親王が即位する予定でした。

睦治親王は病弱で字が下手で

政務には全く興味が無い人物でしたが

明治天皇は巨漢で達筆しかも

政治に非常に興味がある人物で

同一人物とは考えられない人物だったのです。

明治天皇は本当かどうかは

分からないのですが

明治天皇は後醍醐天皇の子孫の

大室寅之助と言う人物だったそうです。

天皇は何故すり替えられてしまったのか?

明治維新の混乱の中

睦治親王は岩倉具視一派によって

暗殺されてしまったのです!

明治維新は倒幕運動で

新政府を誕生させただけで無く

王朝も北朝から南朝に

すり替えてしまったと言うのです。

北朝は徳川家と親密な関係に

あったのですが

南朝の明治天皇からしたら徳川家は

逆賊なのです。

楠木正成の像

これで北朝が正統だと支持していた

天皇家でしたが

実は現在は南朝の天皇だと理解できたと思います。

その為に皇居には南朝の為に

戦った楠木正成の像が存在しても

おかしくは無いのです!

この内容はマニアックな情報だったので

記事にはしませんでしたが

ここに加えさせて頂きました。

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室町時代

せいパパですhappy01

文章中の青い文字は関連HPへリンクしています。

室町時代は

日本の歴史の中で

1番歴史区分が複雑な時代です。

内容も今回が一番複雑で

読んでいても訳が分からなく

なってしまうかも・・・。

1338年足利尊氏が室町幕府を

開いてから

1573年に織田信長が室町幕府を

倒すまでの約240年間ですが

南北朝が統一する1392年までを

南北朝時代と区分され

1467年から1590年の

豊臣秀吉が天下を統一するまでが

戦国時代と区分するので

頭がこんがらがってしまいますね・・・。

(関が原の合戦までが戦国時代と

区分される事もありますが

本当はどれか知りません。)

その反面、有名な人物が

多く登場するので1番人気がある

時代だと言っていいでしょう!

今回は室町時代を

全体の概要の記事と

南北朝時代・戦国時代の

3部構成に分けて説明して行きますね。

登場人物が多い時代ですが

今までと同じ流れで

年号は無視です!

登場人物も必要最低限にしますね

興味が出た方は、いつもながら

自分で勉強して下さいね~。

それでも登場人物が多いので

下の動画を見ると分かり易いです

でも地味な動画です・・・。

室町時代を紹介しますね!

足利尊氏が京都の室町に幕府を作り

北朝を立て

後醍醐天皇は建武の新生に失敗して

吉野に逃げて南朝を作りました。

ここから北朝・南朝と

天皇が二人存在する南北朝時代が始まります。

足利尊氏が亡くなってからは

将軍の地位が下がる一方・・・。

守護大名の勢力が大きくなるし

大人しくなったはずの南朝の勢力が

復活してきて、どうしましょう?と言う時に

足利3代将軍 足利義満が現われて

守護大名などの巨大な勢力を

解体し南朝を北朝に吸収し

南北朝統一を実現しましたが

足利義満も人間なので死んじゃうんですよね

後任の6代将軍は、くじ引きで決定!

ま~一つになったはずの室町幕府ですが

その6代将軍足利義教が暗殺されるし

足利家の時期将軍は幼い子供が多いし

土一揆が各地で起きるし

守護大名による将軍の後継ぎ争いが

激化して複雑怪奇な勢力分布になっちゃいました

みんな権力を手にしたいんですね~。

幕府も弱体化して守護大名の力が

大きくなる中、畠山氏

後目争いに端を発し

将軍の後継ぎ争いで多くの守護大名が加わって

応仁の乱が勃発し

全国的に混乱した世の中になってしまったんですね

時代は戦国時代に入って行きます。

戦国時代は室町時代から安土桃山時代に

またがった時代区分なので

歴史区分としては複雑な為

戦国時代と言う表記は

学校でも無かったと思います。

応仁の乱では誰が勝者なのか

ハッキリしないまま終わってしまったので

火種がくすぶったまま時が過ぎ

一歩出たのが細川政元

細川政元明応の政変(細川政元のクーデター事件)

に成功して

室町幕府の実権は細川氏が手に入れました!

将軍の力も衰えて

細川政元が亡くなった後

内部分裂で力が衰えて行き

無秩序な時代になってしまい

地方の豪族や守護大名等が急成長し戦国大名

現われて来ました。

細川氏の権力の座を奪ったのが

三好氏ですが弱体化した幕府だったので

そうそうたる戦国武将が世に出始めました。

武田信玄・上杉謙信・北条・大友・・・

武将を上げればキリが無いほどです

三好氏は軍事力で足利氏を追い出したが

豪族の反発で織田信長に相談したら

あっという間に京都を受け渡してしまいました。

室町幕府も終焉を迎え

あっけなく安土桃山時代に入って行きました。

茨城県の室町時代

瓜連城は関東の南朝の拠点で

佐竹氏は北朝(足利尊氏)側でした。

南北朝の戦いは

前半は佐竹氏(北朝)を討つために

楠木正成(南朝)が瓜連城を築城

南部では北畠氏(南朝)が小田氏、常陸大掾を

攻撃して南朝優勢に展開していましたが

佐竹氏が瓜連城を落としました。

県南部では北畠氏が小田城に入り

南朝の正統性を主張して

関氏を中心に小田城・関城・大宝城は

南朝の一大拠点になり南朝方では

関城は関東周辺で

最後の砦になり大激戦が

繰り広げられましたが

関城が落ちて南朝軍は撤退しました。

関東では戦国時代が到来するよりも

早く下剋上に入って行きました

室町幕府を衰退させた結城合戦も

重要な戦いでした。

結城城は簡単に進入できなく

10ヶ月も籠城しましたが

最後には落城しましが中央政府に与えた

ダメージは大きかった。

戦国時代の常陸国も

多くの武将が対立しましたが

佐竹氏の大進撃が目に付きますね。

室町時代もう何が何だか

分からないほど複雑です・・・。

着いてこれてますか?

室町時代になると

幕府の統制が無くなり

世の中はグッチャグッチャですね

誰もが権力を手にしたいんですね!

その反面、より強い政府が

無いと言う事が混乱を招くと言う事です。

これまでの歴史を振り返って見ても

強い政府が機能している時は

平和なんですよ!

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鎌倉時代

せいパパですhappy01

文章中の青い文字は関連HPへリンクしています。

初めにのんびりと北鎌倉の動画でも眺めて下さい。

チョー分かりやすい

鎌倉の大仏でアハ体験です。

1192作ろう鎌倉幕府で

有名な時代ですね~。

1192年に源頼朝が幕府を開いたと

学校で習いましたね~

でも実際は?です!

当時の武士は幕府と言ってなかったのです

幕府の事を鎌倉殿と呼び

幕府と言う言葉すら無かったのです。

鎌倉幕府の成り立ちを

見たら鎌倉時代がいつから

始まったのか分からなくなります・・・。

では皆さん鎌倉時代へどうぞ。

いよいよ武士が政権の中心になった

鎌倉時代に入ってきました。

と、言う事で

武士とは何なのか

何処から来たのかを

最初に解説しましょう。

時代を遡って

平安時代に戻りま~す。

平安時代は天皇中心の律令国家でしたね

その頃は土地は国有地でした

朝廷は農民から年貢を納めて貰って

成り立っていましたが

耕しても自分の土地に成らないのに

頑張って新しい土地を耕す農民など

居ませんよね~。

それで朝廷は

新しく耕したら3代まで

土地の所有権を認めますよ~と

法案を出しますが農民は動きません・・・。

将来、国に土地を返さないといけないのに

新しく土地を耕す訳が無いですね!

朝廷が次に出した法案は

新しく耕した土地は

耕した人にプレゼントしますよ~と言う

法案でした。

これは画期的でしたね

これが荘園です!

農民に自分の土地が認められるのですから!

そりゃ~農民じゃなくても

土地を開墾して新しい農地だらけです

朝廷は年貢が入るし農民は

念願の土地が手に入って嬉しい限りです

地方の貴族や豪族も権力を付けていきました。

これが元で律令国家が崩壊に

向かったんですが・・・。

そこから新しい問題が!

ここは自分の土地だ!とか

小競り合いが出てきたんですね~

当たり前ですがね。

位が大きい豪族や貴族は良いですが

位が低い農民や地方貴族は

大きくて身分の違う大きな豪族に

土地を取られてしまっていったんです・・・。

これは武装して自分の土地を

守るしかないと武力集団が結成されました

これが武士の始まりです!

武士は少しずつ力を付けていき

平安時代末期には

平氏(平清盛)源氏(源義朝)の大きな武士集団が

出来上がってきたんです。

地方も武士が力を付けて

武将が現われて来ました。

それでも朝廷は下級階層から

出てきた武士は興味が薄かったんです!

いつの時代も皇族(朝廷)の判断は

裏目に出てしまってますね

だから政権を取られなくて

権力の象徴のまま利用されっぱなしなんですよね!

平氏は朝廷の皇族側にベッタリ寄り添って

力を付けて行き勢力を拡大していきました。

平安京から遠く離れた

関東は無法地帯でした・・・。

常陸国で起こった平将門の乱

象徴されるように朝廷に不満がある

武将ばかりでしたが

混沌とした関東の武将をまとめたのは

源義朝(源頼朝の父)でした。

伊豆の武将でしたが

鎌倉に鎌倉殿を設置して

関東の独立した政治を始めました。

義朝は領土内に地頭(土地を管理する役所)

設置して家来の土地の所有権を認めていきました。

壇ノ浦の戦いで源義経

平氏を滅ぼしたのですが

源頼朝は弟の義経を追放してしまいます

これには理由があって

義経包囲網を作ると言って

各地に地頭を管理する役所を作り始め

着々と朝廷に勝つ政府を作り始めました。

源頼朝の力を利用して

関東の武士達が一つにまとまって

1192年に鎌倉時代の幕が明けましたが

こうして見てみると鎌倉には

鎌倉時代以前から朝廷とは別の政府が

昔からあった事になるので

鎌倉時代もいつから鎌倉時代か

分かっていませんし鎌倉幕府とか

江戸幕府などの幕府と言う名称も後世に

取って付けた名称なので

あやふやです。

源頼朝が死んだ後からが問題続出です

源頼朝の妻、北条政子

父の陰謀で

2代将軍、3代将軍は暗殺されちゃったんです。

実の孫たちなのに・・・。

その後、京都から、どうでも良い

藤原頼経が4代将軍になりましたが

実際は北条政子

執権(将軍の代わりに政治をする事)となって

実権を握り北条家が幕府を独占しました・・・

鎌倉時代は不安な幕開けでしたよ!

それでも決め事は

会議で決める議員制の走りのような

政府で鎌倉幕府は成長していきました。

蒙古襲来

神風で有名な文永の役弘安の役ですね。

強国の元(蒙古)

日本を2度攻めて来ましたが

神風が吹いて戦いに勝利しましたが

敵を追い払っただけで

領土を獲得した訳じゃないので

参加した武将(御家人)に

支払う予算が無くて武将達の

幕府離れが次第に起きて来ました。

承久の乱

鎌倉幕府も始めは朝廷に

反感を買うことが無いように慎重に

政治を行っていましたが関東の荘園から

年貢が入ってこなくなって

朝廷の後鳥羽上皇

鎌倉(北条家)を潰そうと考えました。

平安京よりも西側の国は

以前と朝廷側に付いているし

関東の武将も鎌倉に不満を持っていると

思い込んで後鳥羽上皇は反乱を起こしますが

幕府は事前に朝廷の動きを察知して

団結を深めて朝廷を倒してしまいました!

これで朝廷が支配していた

京より西側の国も鎌倉幕府の

傘下に入る事になり

幕府が大きくなってきました。

得宗家の専制政治

第5代執権、北条時頼の頃には

更なる独占的な政治が行われるように

なってきて・・。

源頼朝が築いた武士の為の

鎌倉幕府ですが武士全体の利益を

考える政治から北条家の本家(得宗家)が

利益を独占する政治に変わってきました

幕府に不満を持つ地方の武将や貴族などが

源頼朝の時と同じように

現れた足利尊氏に賛同

倒幕運動を訴えていた

後醍醐天皇側に付き

あっと言う間に北条家は滅んでしまいました。

後醍醐天皇は天皇の政権回復の

建武の新生と言う

天皇中心の武家政権を提唱したが

武士の賛同を得られずに失敗して

足利尊氏が離脱してしまったので

後醍醐天皇は自ら南朝を立てました。

離脱した足利尊氏は武家政権再興を

願った武士たちと共に

光明天皇を立てて北朝を立て

前代未聞の天皇が二人いる

南北朝時代に時代は移って行きました。

鎌倉幕府が出来た時と

成り行きは同じ感じです・・・。

歴史は繰り返すんですね~。

鎌倉時代の文化

鎌倉時代は文化や経済も

庶民に分かる程、庶民的な物に

変化して来ました。

仏教も布教活動が始まり

各宗派が庶民に浸透し

市場の様な物が各地に

広がりを見せていきました。

茨城の歴史

馬場資幹が水戸に馬場城(後の水戸城)

築いた。

県南部は八田知家小田城を築城し

小田氏になった。

八田知家は源頼朝と関係が深く

鎌倉幕府の中枢に居た人物です。

鎌倉時代の佐竹氏

領土も平安時代に源頼朝に

没収されて雌伏の時代で

殆ど影響力は無かったです。

茨城の歴史に

やっと水戸が登場して来ました。

鎌倉時代は

平安京から遠く離れていたからこそ

関東地方には武家政権が確立して

今日の発展につながったんですね。

鎌倉幕府は源頼朝が

作ったのでは無く

関東の武士達が自分達の利権を

守る為に戦って作られたのです。

真のリーダーとは何かを

知るには鎌倉時代を学べば

沢山の事を教えてくれます。

人間は利害関係で成立しているのですね・・・。

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今日の1曲はこれ!

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平安時代

せいパパですhappy01

平安時代も小難しい事ばかりなので

簡単明瞭に説明して行きますね。

文中の青い文字は関連HPへリンクしています。

平安時代

長岡京から平安京に首都が移った

794年から源頼朝が鎌倉に幕府をひらいた

1192年までの約400年間の時代区分です。

平安時代のながれ

混乱した奈良時代の律令政治を

見直して再出発した時代です。

結局は律令政治は失敗して

地方に権限を与えて中央集権から

地方分権の時代に入りました。

その為、地方には新興勢力が

誕生しその中でも

軍事警察権を委譲された軍事貴族や

武芸専門下級官人層から

時代を揺るがす事になる

武士が誕生しました。

地方分権で中央の政治は安定して

藤原氏による

摂関政治(天皇の代わりに政治を行う)

移行しましたが

藤原氏の力が弱まり

院政(天皇が息子に天皇を譲りその後も

政治に口出しする政治)がはじまりました。

院政政治から中世の始まりです。

中世に入ってからは

貴族同士の争い事は武力で解決され始めたので

武士の力が急上昇し

中でも平清盛

武士から初の太政大臣になり

やがては最初の武家政権である

平氏政権を誕生させた。

これにより天皇中心の国家体制も

崩れていきました。

平氏政権も次第に平氏追討の

源氏軍に追われ「源平合戦」に発展

壇の浦の戦いで源義経に滅ぼされ

平氏政権は滅亡した。

源頼朝

平氏を滅亡させた源義経を追放し

奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした

源頼朝は、その後、征夷大将軍に任命され

鎌倉幕府と呼ばれる幕府(武家政権)

朝廷とは別につくり

鎌倉時代へと時代は変わって行きました。

平安時代で紹介するのは

●律令政治の崩壊

●摂関政治

●院政

●武家政権

以上の事を中心にしますね!

奈良時代よりも簡単な説明しますね。

興味が出た方は自分で詳しく勉強してくださいね~。

●律令政治の崩壊

平安時代初期は天皇統治の

律令政治が続いていました。

平安京を造った事で

財政が悪化して税金を集めたくて

桓武天皇は「なんちゃら法」と言う

土地開発の法案を出すのですが

これが大失敗して

次第に律令政治は崩壊していきます。

律令政治は「唐」のやり方を

飛鳥時代にパクって作ったのですが

肝心な「唐」も土地開発で崩壊しました・・・。

●摂関政治

摂関政治とは

天皇が子供だったり女性の場合

代理で政治を行う事です。

全て藤原氏が摂関になっていました

と言うかこの時代は政治も

官僚も全て藤原家だったので

だ~れも文句を言う人はいませんでした。

摂関政治で中央集権政治から

地方分権になり地方は乱れて

いっちゃたんです・・・。

平安時代初期

藤原不比等の子供(藤原北家)が

権力を独占したいが為に

承和の変・応天門の変で

他の勢力を次々と失脚させた

天皇家に娘を嫁がせて

権力を握っていったんですよ。

●院政

天皇の後継者が途絶えた途絶えに

なった所に

母方の藤原北家が次第に権力を

握って行ったのが摂関政治の始まりですが

藤原氏に実権を握られて

律令政治が乱れ

地方分権で地方の国司や貴族・豪族などは

私利私欲に走り

武士を護衛に付けるようになりました。

乱れていく政治に

皇族も黙ってはいませんでした。

1068年事態は一変しました!

藤原北家とは関係の無い

後三条天皇(第71代天皇)が皇位に付いたのです。

なんと藤原家と関係の無い

天皇は170年振りです!

第82代天皇後鳥羽天皇

子供達が天皇に即位しても

上皇となって

政治に口を挟む政治を行って

藤原氏を追い出して政権を

取り戻し院政を開始しました。

院政を平たく言うと

親父が社長でバカ息子に

二代目を継がせたが

見てられないので引退したはずの

親父が会社の運営に口を挟んでしまう事ですね。

藤原氏は飛鳥時代からの権力の座を

欲しいままにしていましたが

武家政権が成立すると

急速に衰退して行きました。

平安時代最後の院政を行った

後白河天皇(後白河上皇)がいます。

崇徳天皇の怨念

後白河天皇が天皇に即位したのは

1155年です。

後白河天皇に種違いの兄(崇徳天皇

いましたが天皇即位を巡って対立が起き

1158年保元の乱で兄(崇徳天皇)を

破り讃岐に島流しにしました。

崇徳天皇は讃岐で、お経を写して

京都の寺に収めたいと願い出たが

京都からの返事は「ノー」でした

それに腹を立てた崇徳天皇は

天皇家を恨み指を噛み切り

返された、お経に

「日本国の大魔縁となり、

皇を取って民とし民を皇となさん」

訳すと

「大魔王になって、天皇を平民に落とし

平民を天皇並の地位に上げてやる」

と言う意味です。

その後、天皇家には

たたりではないかと言う程

災難続きで最後には

崇徳天皇の言葉が現実になってしまいました。

天皇家が平民から成り上がった

武家政権に倒される事になったのです。

その後明治時代になるまで

約750年間

天皇は名ばかりで

ろくな食事もとれない程でした。

明治天皇が歴史の表舞台に

出る際に崇徳天皇の怨念が

悪さをしないように

京都に崇徳天皇をご神体にする

白峰神宮を建立しました。

それだけ天皇家には崇徳天皇の怨念は

脅威なんです。

●武家政権

今までの話の流れで

武士が登場して力を付けて行った事が

理解できたと思いますが

武士も人間です

権力の近くにいつも居たら

自分も権力を手にしたと思ってしまいました。

平清盛もそんな事を考えた武士です。

天皇家に近づき政権を握るチャンスを

今か今かと待っていましたが

何をやって良いか分らず

保元の乱などで天皇方に

有利な功績をあげていき

摂関政治と同じやり方を

とっていましたが相次ぐ武士の弾頭で

源氏に追われ最後は平氏政権も

滅亡してしまいましたが

源氏を中心にした武家政権が

天皇を超える強大な力を発揮する事に

なりました。

平氏、源氏共に

関東に拠点を置いた武士だった為に

歴史は近畿から関東に

政権の場が移って来たのも

この時代です。

茨城県の平安時代

茨城の平安時代は

何といっても平将門ですね。

平氏とは

桓武天皇、仁明天皇、文徳天皇、光孝天皇の

4流がありますが

歴史に残る平氏とは桓武天皇系の一族を指します。

平将門も桓武天皇系の平氏一族で

猿島中心の武将でしたが

律令政治が崩壊して行く中

力を付けて行った地方武士です。

平将門の乱(史上初めての武士による反乱)

起こしてましたが藤原秀郷、平貞盛によって鎮圧されたが

朝廷に与えた影響は大きかったです。

平将門の反乱で地方武士の

力が大きくなり源氏が関東で力を付け

律令政治崩壊~武家政権しいては

鎌倉幕府が起こる原因でもありました。

茨城の2大勢力

県南部は半官を命じられた常陸平氏です。

大掾職(半官)を世襲した地方氏族で

職名から大掾氏を名乗り

県南部を支配しました。

県北は源義光直系の佐竹氏

勢力を強めて平安末期には

大掾氏は水戸周辺まで

勢力を伸ばし

北の佐竹、南の大掾と

小さな地方権力がポチポチ

存在しましたが

この2大勢力が支配して行きました。

平氏側に付いていた佐竹氏は

源頼朝が挙兵し富士川の戦いで

平氏軍を破った後

佐竹氏を攻め佐竹は敗北し

広大な領土を没収されてしまいました。

小田氏

平安時代末期に

常陸国の守護に八田知家が命じられ

八田家は筑波山麓の小田に居城を

構えて小田氏を名乗り

県南部を支配する事になりました。

奈良時代の全体的なイメージ

平安時代は400年間の間

政権奪取のレースが開催されたと言って

いいでしょう!

そんな激動の時代を最後に制したのは

今までの歴史に存在しなかった

武士と言う存在でした。

その後武士は700年間もの

長い間、政治のトップに君臨する事に

なりました。

こうして平安時代を見ていると

生命の進化に似ている所があります

普遍的な絶対権力の

皇族や貴族の時代から

平民から成り上がった武士に

政治は移りその後中世を制したのは

農民出身の豊臣秀吉です。

力が弱くても生態系の頂点に

なった哺乳類

歴史の世界も生物の世界も

同じ歴史を歩んでいきます。

成功するには時代を良く見て

チャンスが来るのを待つ

しかもチャンスが来るのも

ただ待つのでは無く

自らの力で道を選択する力こそが

成功する近道だと平安の政権争いレースが

私達に教えてくれています。

でも頂点には必ず終わりが来ると

平安時代は教えてくれています。

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